No. 9 1999.3.15.
[ひとりひとりが勇気をもとう]
3月4日、本町大阪府商工会館で開催した川田悦子さん講演会「いのちと向き合う中で、“生きる”とは、“働く”とは」には一日の勤務を終えた仲間が次々と駆け付け、会場満員のなかで開催されました。
川田悦子さんは約2時間にわたって「龍平君のHIV感染と闘病」「国(厚生省・裁判所)、製薬会社・医師との闘い」「仲間との確執・団結」「家族間の悩み」「和解と今日の闘い」などについて物静かに淡々と語られましたが、多くの仲間は講演に涙を流しながらもひとりひとりが勇気をもって頑張ることの大切さを学びました。
講演後、川田悦子さんを囲む2次会にわ100名を越える仲間が参加し、感想を語り合いました。
2000名感染、500人死亡
血友病に使う非加熱の血液製剤が83年1月にアメリカで危険とされ、3月には加熱が認可されました。
日本の厚生省は6月には“米国から輸入している製剤が汚染されている”との報告を受けましたが、加熱を認可したのは85年7月でした。
当時、市場の半分以上を占めていたミドリ十字は加熱の技術がなく、認可すれば同社が打撃を受けるため、約2年も延ばしたのです。ミドリ十字は認可後も非加熱製剤を回収せず、翌年まで出荷し続けました。
その結果、全国の血友病患者の約4割、2000人近くが感染し、500人近くがエイズで亡くなり、今も4日に1人が亡くなっています。いわば皆殺し、大量虐殺です。
薬害エイズの刑事裁判では「業務上過失致死」を争っていますが、これは誤って人を死なせてしまうこと。
医療の現場でお金もうけのために命を無視し行われたことを「業務上過失致死」で許すことはできません。
「生き抜きたい」とわが子の叫び
86年1月、私は医師から龍平のエイズが「陽性」と言われましたが、覚悟していたのでうろたえませんでした。
龍平の症状が悪化し、12月からエイズ治療を始めた際、感染していると告げました。嘘をついていては新たな治療は始まらない、と思ったのです。龍平は「エイズが発症したら自殺するよ。もうこれ以上、苦しみたくない」と言ったので、一瞬後悔しました。自分の人生を振り返ると、青春時代は夢や希望がふくらみ、若さがはちきれる時です。そして人を好きになった時の胸のときめき。この素晴らしさを知らないまま死んでいくなんていや、何としても青春時代を送ってほしい、龍平と一緒に生きのびていこうーとその時、誓いました。
87年6月、龍平はインターフェロンでの発症予防の治療を進められました。「効果は分からないが副作用は強い」と言われ迷いましたが、龍平は「その治療したい」と言ったのです。どんなつらい治療でもいい、何としても生き抜きたい、との叫びを聞き、涙がこぼれそうになりました。
「被害者が加害者」との誤った報道」
87年1月、厚生省が神戸で日本初の女性エイズ患者が出たと発表しました。週刊誌はこの女性の遺影を撮影し載せたのです。エイズは恐いから患者にプライバシーや人権はなくていい、との報道一色でした。
2月には高知で妊婦がエイズ感染していると分かり、マスコミも医師も「生むべきでない」と言いました。
ナチの「優生思想」ではないですか。
患者は被害者なのに加害者のように扱われ、隠れて生きなければならない状況に追い込まれました。私も高知事件以来、親であることを隠すようになりました。
他方、ミドリ十字の社名は昨年なくなりましたが、事実上は生き残っています。日本ではどんな悪事をしても、大企業ほどのうのうと生き延びる。おかしな仕組みです。
「生まれてよかった」という“国”“星”に
89年の裁判提訴の時、私は原告に加わりませんでした。「国相手の裁判は勝てない」と言う夫を説得できなかったのです。
龍平がある日、「どうせ長く生きられないから、何をやっても無駄」と言い、私ハッとしました。勝てないからやらないのは泣き寝入りではないか。その時、私は裁判の道を選んだのです。
龍平は高校時代は部活やテレビ、マンガに明け暮れていましたが、なぜ自分がこのような目にあわなければならなかったのか、真実を知りたいーと本を読み出しました。高校卒業の年の95年3月、実名を公表しました。裁判では“薬害を自分のことのように怒っている人がいる”ことを知って驚き、励まされました。
医師や行政からだまされ、マスコミにひどく報道され、学校でもいじめられた龍平が、「人は信じられる」と思うようになったのです。たたかう相手は何より自分自身でした。5月、地域の集会でこう言いました。「僕は感染していて不幸だけど、さまざまな人に出会えて“不幸だけど幸せ”という不思議な気持ちです」
私は被害者の母ですが、薬害を許している社会に生きる一人の大人の責任として、裁判を通じて、被害者が自分で自分の人生を決めて、堂々と生きられる社会にしたいと思いました。この裁判は和解しましたが、企業と行政の癒着、天下りの仕組みを許しておけば何度でも薬害は起きます。
私は“強い女性”のように思われていますが、そんなに強くありません。泣きながらやってきました。でも、命や人権を踏みにじる人たちからは“恐ろしい女性”と思われたい。皆さんと手をつなぎ、本当に「ここに生まれてよかった」という国、星に作り変えていきたいと思います。
(感 想)
「生きる」ことに心あらた
一人の母親として、また女性として川田さんの生き方、その強さに圧倒されました。血を分けたわが子が血友病治療の血液製剤から薬害エイズに冒されるという一見大国で平和な日本に強い憤りを感じました。偏見・好奇・世間の冷たい視線とのなかで親子共々ガンバッテおられる姿に感動しました。夫は臓器移植のドナー登録をしています。人間として生まれてきた以上精一杯悔いのないように生きたいというのは本当に自然な姿です。私も川田さんを心から応援して生きたいと思います。(M・Hさん 女性)
勇気をありがとう
HIV感染した龍平君が政治家や製薬会社に「殺される」かもしれないというすざまじい生きざまのなかでの川田さんの怒りやたたかいの話には誰も口をはさめるものではありません。私も龍平君のたたかいに自分のこととして加わった若者たちの健全さ、真の友情も「あきらめてはならない」素晴らしい可能性を感じたことを人に伝えたいと思います。平和で人間が大切にされるこの星にしたい。勇気をありがとう。(T・Eさん 男性)
「死ぬ」と「殺される」は違う
息苦しくなるくらいに重たい話に一言も聞きもらすまいと聞き入りました。淡々とした話し方でしたが、川田さんの葛藤の過程がよく判りましたし、同じ子を持つ親として生き方を問われている気がしました。「死ぬと殺されるは違う」とは壮絶な訴えです。(M・Kさん 女性)
自分のために生きたい
18才の高校生です。今まで何となく生きてきた自分が恥ずかしくなりました。簡単に「死にたい」とか「何で生きているねん?」なんて思っていた自分が情けなかったです。でも、これから精一杯自分のために、自分に納得できるように生きたいと思いました。川田さんいい話をありがとうございました。(女子高校生)
一人一人が怒らなければ
今、生きること、働くことがシンドイ時代である。国と企業が不況を盾にとって国民の生活の各方面にわたって削ろうとしている。どこまで我慢するのか、川田さんは命をかけての闘いであるが、今国民も同じ立場にあると思います。一人一人が本当に怒らなければならないと思った。(S・Nさん 女性)
「革新懇」ならでは
誘われるままに「大阪損保革新懇」に入会した。釣りサンデーの小西さんの話、「ダイオキシン」学習会の話、映画「ブラス」の感激に続き、今回の川田さんの講演に涙を流し、怒りに身震いした。多彩なイベント・講演会など「革新懇」らしいなと思っています。これからもいい企画に期待します。(K・Mさん 男性)
映画「ブラス」に725名
主催「アイクル」・共催「大阪損保革新懇」で開催した映画「ブラス」上映会には両日で725名(内損保関係者は454名)が鑑賞しました。