大阪損保革新懇第7回総会記念講演録  2004.11.5 大阪府商工会館大講堂

「平和と平等をあきらめない」

   ジャーナリスト: 斎藤 貴男さん    
                           この講演録の文責は大阪損保革新懇HP委員会にあります。


<中見出し目次>
香田証生さん事件に思う
いま、日本は戦争と差別と監視の国をめざしている
「衛星プチ帝国」めざす日本
平和のためのタカ派と戦争のためのタカ派
「構造改革」がもたらせているもの
「ゆとり教育」の狙いは何か
中高一貫教育、ついで小中一貫教育も
「できる子かできない子か、遺伝子で調べる」
相性がいい差別と戦争
「いい立場にあるものが、他人さまを見下してはいけませんよ」
保険会社に思うこと


香田証生さん事件に思う
 みなさん今晩は、フリーライターの斎藤貴男です。今日はお招きいただきありがとうございます。このご時世にこれだけの人たちが集まっていただき本当に嬉しいです。
 さっそく本題に入りますが、実はこの二、三日、あまりしらふでいられない感じがしてならないのでお酒を飲みすぎました。と言うのは、例の香田証生さんの事件です。
見知らずの人が亡くなったということだけでこんな感じになっているわけではありません。彼の死とそれに向かう今の日本社会とマスコミのあり方についてかってないショックを受けているからです。
 それは4月の高遠さんたちの時にあれだけの激しい人質バッシングがあり、私はその時も随分憤って、いろいろな雑誌や岩波新書『安心のファシズム』にも長々と書いたのですが、今度はその時のような怒りとも違い、「いよいよ本当に戦争なんだなあ」と、事実今もイラクでは戦時下にあるわけですが、「ここ数年危惧していたよりはるかに速いスピードでやって来てしまったな」と、今回の事件の扱われ方に感じたからです。
 テレビや新聞で大体のことは報道されていますが、今日発売されたフライデーがかなりショッキングな記事を載せています。それは彼が殺される時の様子をアルジャジーラがインターネットでその殺される一歩手前まで映し出しており、その間の経緯について文章があるのです。その画像を見ながら解説を読みますと一体どうなってしまったのかなという気がします。つまり最初に別の人間の死体が発見されて香田さんかと騒がれたけれどもそれは違った人でした。その段階で小泉首相は福田前官房長官の息子さんの結婚式に参加していた。その直後、本人が殺される、という順番になるわけです。
フライデーには、その結婚式の時のやり取りを色々書いています。首相が森前首相に「組閣でもめて以来恐くてお会いできなかった」などと語りかけ、森さんのほうが「本当は恐くも何ともないくせに」などというほのぼのとした会話が交わされた結婚式だったというわけです。
香田さんはどう考えても無謀といえば無謀です。しかし、現実に人質になって、まさに生きたまま首を切り落とされるということが目に見えていた。その状況の中で一国の首相たる人がほのぼのムードで、おそらくその福田さんの息子もいずれは政治家になってわれわれを支配する側の人になるのでしょうが、その結婚式で冗談も言い合っていた。そのことについて問われて小泉首相は「それでは公邸で何もしないでひきこもっていればいいのか」と開き直ってそれで済んでしまった、という事実です。
森さんの時には、例の「えひめ丸」の事件がありました。その時彼はゴルフをしていて色々叩かれていたわけですが、今回は叩かれもしない。それよりは「香田さんは無謀なんだから、殺されて当たり前だ」という空気が彼らの間にある。もっと恐ろしいことは私たちの社会全体の中にも同じような空気がまかり通っているということです。
産経新聞、読売新聞の類を読んでいきますと、正に戦時中そのまんまというような記事がたくさん載っています。先日はサンケイスポーツで社会面に花岡さんという以前産経で政治部長をやっていた人ですが、コラムにこんなことを書いていました。「今回は4月の時のようなヒステリックな救出への声は出なかった。殺されて当然という声が日本社会を覆っていたが、これはわが国の社会が成熟した証拠である。テロに対してそのような態度を取るのが社会の当然の姿勢だ」と。
また今日の産経新聞には曽野綾子さんの原稿が載っています。「このようなことで政府や関係者をきりきり舞させる香田さん的行動はいつでも誰でも日本国家の国民に大きな迷惑をかけるであろう」と偉そうなことが書かれています。
私は自己責任という言葉は大嫌いなのですが、本人は殺されてしまって、もうこれ以上取りようのない自己責任の取り方をしてしまったわけです。それに対して何の関係もない第三者が、ここまでの暴言を吐いて許されている。むしろそれが当然だという空気にあふれてきたこの国の社会に深い憤り、というよりは危機感を感じます。
フライデーにはもう一つショッキングなことが出ています。このような事件が起きるインターネット上によく誹謗・中傷が飛び交います。今回フライデーによりますと、今回もいろんな誹謗・中傷が飛びかいましたが、中には当然同情論も出てくる。同情論が出て、掲示板にそういう声が多く出始めると政府の人間がそこに介入する、政府がそこに反論を書き込んで政府側の方向に持っていくということを始めた形跡があるのです。
言論統制・個人情報保護法に始まり、私は随分そのことを言って来ましたが、ここまで来てしまっているのです。

このたびのアメリカ大統領選挙でブッシュが再選されました。このことはこれから私がお話しするような危険がますます高まることになりそうです。
今でも戦時下ですが、それがアッという間に、もしかしたら本土決戦みたいな話になりかねないと思います。個人的な意見を言うならば、対テロ戦争という名の第三次世界大戦にもなりかねない状況だと思っています。
チェチェンにアルカイダがいると言われている。またそういうテロリストグループが世界中にいるとも言われています。テロリストというのは何か。よく考えなければなりません。もともと彼らは何も愉快犯でテロリストになったわけではなく、もともとアメリカの世界侵略に対するアンチテーゼとして出てきたり、ロシア軍の攻略に対するレジスタンスとして出てきたのが大元であったりするわけです。
だからといって、何をやってもいいということにならないのは当然ですが、そういう大元があって出てきたテロリストたちが手を組む、一方アメリカ・日本・ロシアなどの国が侵略国グループ、もしくはクラブとして手を組む。こういう形の世界大戦になっていくのではないか、つまり国家対国家ではないもっとゲリラ的なより恐ろしい戦争状態が今後世界を覆うのではないか、とさえ最近は考えてしまうのです。どうもそれが酒量が増えた原因のようです。そこから先はどうなっていくのか。正直何ともいえません。
あまりあおり過ぎて、絶望だけを発するのではなく、今日はなぜこんなことになってしまっているのかという現状認識について私の思うところをお話したいと思います。

いま、日本は戦争と差別と監視の国をめざしている
私はこの数年、私自身の関心のおもむくまま、あるいはいろんな雑誌の編集部の依頼によっていろいろなテーマを取材してきました。最初の内はこんな形で結びついていくとは思っていませんでした。その時々そうか、そうだなと思ってやっただけのことだったのです。
例えば、いわゆるオカルト的な価値観や人間というのは全体の中ではちっぽけな存在だったはずですが、いわば唯識論といいますか、オカルト的な思考方法が従来からの合理的な思考に変わって企業の労務管理に使われてはじめているのではないか、こんな問題意識から97年に『カルト資本主義』という本を出しました。
それから私の関心は「基本ネットワーク(住基ネット)」「国民総背番号制」に向いていきました。だんだん勉強を進めていくうち構造改革というのは階層間格差を拡大するのではないか、機会均等というけれどどうも本当は機会不均等ではないか、ということがいつのまにか自分の中に結びついていったのです。それが『機会不平等』の本を書く背景となりました。
いま、この国の社会がどんな姿をめざしているのか、日本全体が向いている方向はどちらなのか。私は一言でいいますと、それは「戦争と差別と監視の国をめざしている」と表現したいと思います。では、いままでが「戦争も差別もない平和で平等ですばらしい国」だったかというと、もちろんそんなことはありません。さまざまな差別も偏見もある国でしたし、実際に朝鮮戦争やベトナム戦争にも国としても積極的に参加した国です。ただ憲法九条があり、国民全体の中にも「戦争なんかしない状態がいいんだよね」程度のことはみんなの共通認識として存在していましたし、また部落差別や在日の問題があってもそのような差別や犠牲はあってはならないという世論もありました。
しかし、バブル崩壊前後の90年代はじめあたりから「戦争と差別と監視の国をめざす」という空気が芽生えかけ始めたように思います。この10年間の間に、平和や平等に対する政策が一気に変わり始めたと言えるのではないかと思います。単純に反動・保守の人たちによる反動政策が進められているというのは判りやすい図式ですが、同時に日本の世の中全体がその風潮を許すようなものになってきたということも無視し得ないと思っています。

「衛星プチ帝国」めざす日本
97年でしたが、当時経済同友会代表幹事であった牛尾治朗氏はこんな発言を残しています。「アメリカが羨ましい。アメリカは進出先の国でなにか紛争が起こった場合空母がきて助けてくれる。しかし日本では日本企業のために自衛隊は来てくれない。われわれは何がおころうが指をくわえて見ているだけだ」と。
前後して、もう少し前から経済同友会は「憲法九条を変えろ」という要求・提言をさかんに繰り返してきています。つまり牛尾さんが言いたいのは、海外に展開している日本企業のそこで紛争がおこる。内戦があったり、クーデターがあったり、革命があったりする。その場合の保障を求めることにつながります。たいてい日本の進出を迎える発展途上国は「労働組合を作らせません」というようなことをいって誘致しているわけですが、労働者が労働組合を作ることもある。この対策が必要というわけです。
いうまでもなく、いわば革命を含めてカントリーリスクとかポリティカルリスクに対してそれぞれの企業が進出することのメリットと危険とデメリットをはかりにかけて経営者が経営判断を下して進出していたわけです。ですから何かあれば自分で責任をとる、とらざるを得ない。このことが前提・原理・原則でもあったわけです。ですから、少なくとも「軍隊を出してくれ」というようなことは言わないでいた。しかし、いまの牛尾発言というのは、「何かあったら軍隊を出して守ってね」ということですからはっきりしています。言い換えると、「われわれはなにも金儲けのためだけに海外に行っているのではありません。日本経済のために行っているのだから、税金でもって、武力でもって守ってくれ」とこういうことをはっきり言い出したわけです。まさに、品川正治さんのおっしゃっている軍産複合体です。
軍産複合体の定義も変わってきています。70年代アメリカの軍産複合体論がさかんに議論されてきた頃は、軍事産業が生産してきた兵器や戦車やミサイルが消費されないことにはかれらはそれ以上の寄与を受け取ることができない。それを消費するために戦争をする。これをもって軍産複合体と言っていたわけです。しかしこれはごく狭い意味でありまして、そうではなく企業が海外に進出し、単に現地に工場を作るだけでなく、安い労働力を使って利益を上げ、海外に資産を蓄積していく、これを守るための軍事力。このような軍需産業をすすめていくこれが、いまのひろい意味の軍産複合体です。これがいまの日本がめざしている方向です。戦後の日本で育ってきた者にとっては、非常にすさまじいと思うわけですが、なんのことはありません。アメリカではずっとこれが常識だったのです。
日本もまた戦前の大日本帝国時代はこのようなあり方に限りなく近かったわけです。昔はどちらかというと、先に軍事力・軍隊が出ばって植民地にしたり、侵略する。そこに後から企業が行って、そこから富を収奪するというやり方でしたが、今では企業が先に行って、そこの資源なり、労働力なりを収奪していく。そこでトラブルがあった場合に軍事力で制圧する。順番がやや違いますが、基本的には同じです。それを戦後の日本は9条が一定の制約を果してきたわけですが、それがいつの間にかなくなってきつつあり、まさにアメリカのミニチュアをめざす、これが戦争を進めたい最大の理由です。
私はこういう流れというか、小泉政権なり次を狙う人たちがめざす日本のあり方を「衛星プチ帝国」と表現しています。アメリカの衛星国なのです。しかし、経済大国でもあるので、それに見合った帝国でもありたい。プチというのはフランス語で小さなという意味で「衛星プチ帝国」です。漫画家の石坂啓さんが、似たような考え方を漫画で例えています。ドラえもんに例えているのです。アメリカはいつも乱暴なジャイアンです。それに対して日本はスネオ、乱暴なジャイアンの脇にいつもくっついている小ざかしい小金持ちのスネオ。現実のジャイアンはただ乱暴なだけではありません。素手ではなくて、ミサイルを撃っちゃうんです。それに対してスネオは今まではただくっついていただけでしたが、今度は「自分も武力を行使したい」と言い出した。ジャイアンもなんだか頼もしく思うようになる。香田さんが殺された時、星条旗に包まれていました。つまりアメリカの手先という風に表現されているわけですが、これは正にいま言ったようなことが現実になってきたのだということになると思います。
いま、日本で君が代・日の丸問題が問題になっていますが、本当は星条旗を掲げてアメリカ国歌を歌わなければまったくおかしい、それくらい手先になっているということです。ただそこまでいくと右翼も左翼もそうでない人たちもさすがに辛すぎるわけですね。そこで、癒しとしての日の丸と君が代になる。冗談の様ですが、現実はこんな話では収まらないくらいもっともっとひどくなりつつあるのです。

平和のためのタカ派と戦争のためのタカ派
今、東シナ海において日本と中国がガス田の開発をめぐって領海争いをしています。それについて国会で質問した自民党の議員が「武力攻撃を含めた対応を考えるべきだ」と発言しています。つまりガス田開発について領海の問題でもめたら戦争しようぜ、ということを言い出したわけです。先ほど海外に展開する日本企業の権益を守るためなどと言いましたが、もうそんなことでさえない。「何かあったら戦争しようぜ」というぐらい短絡的思考がすでに自民党議員の間で始まってしまっているということです。卑近な例を紹介しておきましょう。
一つは、むかし青嵐会にいた自民党でもタカ派といわれていた中山正暉という大阪選出の議員がいます。彼の議員引退前に取材したときに聞いた話です。米田ケンゾウという若手ともいえない代議士がいますが、彼がある時、「中山先生、北朝鮮がテポドンを打ってくるというなら、こちらから先手を打ってミサイルを落としてやりましょう」と本気で言ったというのです。そのとき、中山議員は、「おいおい米田君、そんなことをしたら向こうの人は死ぬのだよ、そんなことも分からないのか、君は」と一喝したと言うのです。かつてタカ派で有名だった人が若手の暴言をたしなめたというのです。私は少しからかってやろうと思って、「しかし中山先生、有事立法も成立しましたし、かねて先生が主張された通りで良かったじゃないですか」と言ったら、「それは違う。私のタカ派は平和のためのタカ派であって、戦争をするためのタカ派ではなかった」とよく分からないことを言い出したのです。しかし、タカ派といわれていた人であっても一昔前の戦争体験がある人に言わせると恐ろしくなるような状況が今出てきているわけです。また、もう一つ。
 今年の2月、自衛隊がイラクに次々に向かっていきました。その中に神奈川県横須賀基地から護衛艦「むらさめ」がありました。「むらさめ」が出港する時の出陣式、ここには自衛官と家族と報道陣だけが集まりました。つまり外の人は入れないところで、3人の防衛庁関係の政治家が挨拶しました。一人が浜田防衛庁副長官で、早い話が浜幸のせがれで、もう一人が中谷元元防衛庁長官。この2人は「武士道の国の自衛隊」うんぬんという話をした。これ事態大問題ですが、ここでは省略します。
 よりひどかったのが、もう一人、玉沢徳一郎元防衛庁長官の発言です。彼は、「本日天気晴朗なれども波高し。皇国の興廃この一戦にあり」と話したのです。100年前の日露戦争の日本海海戦におけるバルチック艦隊を迎え撃った東郷平八郎元帥の言葉です。教科書に東郷平八郎をのせる、のせないとやっていましたが、それどころかこういう公の場で100年前と同じ言葉で挨拶をしたのです。
 この件でわかることがあります。一つは、小泉さんは「イラクへ自衛隊を派遣することは戦争をしに行くのではない。イラクの復興支援のためである」と言ったわけですが、何のことはない、このひとたちは本当に戦争だと、しかも皇国の興廃をかけた戦争だと認識しているわけです。もう一つはさらに恐ろしいのですが、この発言についてほとんど報道されなかったということです。唯一報道したのが毎日新聞神奈川県版だけでした。しかも「"皇国の興廃の一戦ここにあり"と元防衛庁長官が語る一幕もあった」と。これだけなのですね。つまり、これほどの暴言を新聞は黙認というか、あえて糊塗することに手を貸した。私なりに言い換えると「戦争教育を始めてしまっている」ということなのです。本来であれば、社会面トップにきてもおかしくない、これほどおろかな連中が戦争しようとしているんだということを広く伝えなければいけない内容です。
ジャーナリズムがここまで来てしまっているということです。以上が、日本の国が戦争をしたい理由。そして、その現実が凄まじい勢いで進んでいるという事実です。

「構造改革」がもたらせているもの
 さらに話を発展させて、戦争と差別と監視の社会について考えてみたいと思います。 いま、小泉内閣のもとで構造改革という名のさまざまな政策が大手を振って進められています。社会保障改革・税制改革・雇用改革・労働市場改革・三位一体改革・公務員制度改革・教育改革・地方制度改革など枚挙にいとまがありません。ついこの間、小泉さんが構造改革・構造改革と言い出すとなんか素晴らしいことでもあるかのように多くの国民は受け止めました。それが、彼の人気にもつながったわけですが…。
 私はこれらの構造改革路線と呼ばれているものは、つまるところ差別を作り出し、それをさらに拡大していくものに他ならないと理解しています。一つ一つ彼がやってきたことを検討していくと、ほとんどの人にとっては何の得にもならなかった、というより一方的に収奪されただけの結果にとどまっているのではないか、と思います。
 構造改革、その結果もたらされているものは、もともと恵まれた人・お金持ち・高学歴の人、こういう人たちにとっては非常に有難いというかより助かる結果がもたらされてきた。だが、もう一方のそうではない人たち、人口のざっと9割から9割5分の人たちは何ももたらされていない、ただ一方的に分捕られていく、収奪されたということではないかと思います。
 一つ一つあげればきりがありませんが、端的にいちばん分かりやすいケースとして税制改革を取り上げてみましょう。現在、消費税は5%ですが、昨年1月経団連・奥田会長は2015年までに消費税率16%に段階的に上げていく必要があると打ち上げました。彼らは30%あたりまで視野に入れていることです。それではそんなに消費税ばかり取たったら世の中の税金があふれちゃうこととなりはしないか。心配することはない。それで増えた分は法人税をなくすことにある、あるいは所得税にかかる累進課税を緩和することにある。つまりいままでは沢山収入がある人は余計税率が高かったが、それをフラットにする、お金持ちからあまり税金を取らないで貧乏人からとる、こういうことになります。あまりにもあからさまですが、しかしこれは彼らの間では立派な経済理論にもとづいた考え方なのです。
 竹中平蔵さんが大臣になる前に、何度か取材したことがありますが、彼が繰り返し述べていた新自由主義的な考え方があります。新自由主義というのはアメリカンスタンダードのグロバリーゼーションの中心的な発想・思想です。分かりやすくいうとこういうことです。ここにテーブルがあります。ここに水をぶちまけますと、水であふれます。けれどもわずかな一部は端っこからポタポタたれて地べたを濡らします。これと同じように物事を考えわけです。ここは社会の上層、税金。そして地べたは社会の下層。下層から吸い上げてきた税金、消費税などはまさにそうですが‥を上層だけに還元してあげる。そうするともともとお金持ちの人たちは活性化され、例えば少しの雇用を増やすかもしれない、だから下層も少しは潤う、儲かるのではないか。だからいいことではないか。これが竹中さんの考え方です。彼はよくフリーライダーという言葉をしきりにいっています。フリーライダーとはつまりただ乗りということで、脱税している人だけを必ずしもさしていません。竹中さん的な発想では、たくさん税金を払えない人、つまり貧乏人はフリーライターなんだそうです。だからサービスを受ける資格がない。というのが竹中さんの発想であり、これが正にアメリカ的新自由主義の根幹にあるのです。
 雇用労働市場問題については私が取材してきた中で一つの経験があります。これが本質かなと思いましたので、ここで紹介しておきたいと思います。
 99年のことですからもう5年前です。大阪に本社のある住友不動産でこの事件がありました。週刊現代がスクープしたのですが、「夜のセクハラ大運動会」という事件です。この年の暮れに住友不動産が忘年会をしたのです。不動産会社ですからホールをいっぱい持っています。あるホールに部長代理以上130人位の男性社員と18人の若い女性OLが集まってきました。運動会スタイルの忘年会を始めました。運動会スタイルといってもお酒を飲んで走ったら死んじゃいますので、そこはお遊びです。それがセクハラ運動会です。何をしたか、男性と女性が肩を組んで密着します。一つのアンパンを両側から食べていきます。そして一番先に食べ終わったチームの勝ちという「ラブラブパン食い競争」。それと男性と女性で一番前が女性そして男性・女・男・女・男と縦に並んで、前の人の腹部を抱えて中腰になって歩いていく「恐怖のムカデ競争」。それから椅子を並べて男女が並んで裸足になって一つのスリッパを足でリレーしていく「愛の一本足リレー」なるものが次々とおこなわれた。男の方は部長代理級以上の中間管理職でないと参加できなかったのですが、なぜか特別に参加を許された数人の若い新入社員がこの事実をポラロイドカメラで撮影し、その場でセリに掛けるという正に「セクハラ大運動会」の名にふさわしいパーティが行なわれたわけです。これが週刊現代に載った。私はこの記事にピンとくるものがあって、それに参加した女性に取材をしました。完全な緘口令がひかれていましたけれど、なんとかたどりつきました。そして話を聞いていたのですが、どうもついついこちらの方が年長でしたので、何故そんなのに出たのと、とがめるような、いかにもオジサンの取材になってしまいました。
 そうしたら、彼女にたしなめられました。「斎藤さんちっとも判っていないのね。それでもジャーナリストですか」と冷ややかに言われてしまいました。何故判っていないのか。つまりこのセクハラ大運動会は、有志の集まりではなく人事部の主催でした。そして参加した18人の全員が派遣社員です。人事部の主催に派遣社員が逆らったらどうなるか、明日からクビになるかもしれない。労働者としての権利が守られていない立場だからこそ成立する催しだったわけです。13人が「そんなの別になんでもない」と思い楽しんで出たかといえばもちろん違う。その女性によれば全員が何らかの事情を抱えている。何が何でも明日にクビになるわけにいかない人たちです。旦那と別れて一人で子どもを育てている、年老いた両親を抱えている、そういう事情があってなにを要求されても逆らうことができないという人たちがこんなにもいる。
 この年、連合東京が「派遣労働者110番」という相談窓口を設けました。この時も担当者によるとかかってくる電話は圧倒的にセクハラの訴えだったそうです。話をきき憤って聞いてみると、「あなたどこの会社ですか。どういう上司ですか。あなたの名前は」と聞き、「教えてくれたら連合としてきちんと団交しますから教えてください」と言うのですが、全員が受話器の向こうで泣き出すだけだったと。
 つまり、今の労働市場改革だとか雇用改革と呼ばれているものは、ただ単に会社の中での待遇が悪くなるというだけではなくて、人間としての尊厳を簡単に損なう、つまり身分格差になってしまったということです。これが労働市場改革の一番肝心なところではないかなと思います。

「ゆとり教育」の狙いは何か
 そして、もう一つ重要なのが教育改革です。今の教育改革というのはもともと恵まれた層、つまりお金持ち・親が高学歴・親が教育問題について深い認識を持ち、情報にアクセスできる立場の人と、そうでないほとんどの子どもたちとの教育の格差をつけるというものに他ならないのです。親が余程金持ちで見識がある家の子でないと勉強もさせてもらえないというのがこれからの教育改革です。
 ゆとり教育というのがこの教育改革の柱として2002年4月から施行されています。もともと文部省の建前は、「それまでは詰め込み教育しすぎた」、したがつて「全体のハードルを下げることによって、誰でもついてこれるようにするのだ」とし、確かな学力を保障するというものでした。しかし、実際に行なわれているのはちょっと違うのです。ゆとり教育によって小中学校の授業時間と内容が全体で3割削減されました。私は学力低下がいわれている折からそんなことをしたらもっと学力が落ちるではないか、本当はどういうことなのかという問題意識から取材していきました。
 文部省の建前はもういいから、本音はどうかということで新しい学習指導要領の原案になる答申を作った教育課程審議会会長の所へ取材に行ったのです。この会長は三浦朱門氏で、先程の曽野綾子さんの旦那さんです。「新しい学習要綱というのはどういう根拠で出来ているのですか。ただでさえ低下している学力がもっと低下するじゃないですか」と聞きました。
 彼はこう答えました。「低下というのは、むしろ望ましいのだ。日本の戦後の平均学力が高まったのは、落ちこぼれの尻を叩いた結果で全体の底上げは図れたけれども、その子たちに手が取られてしまったので良い子が育たなかった。だから今こんなていたらくなのだという認識を持っている」と言って、ゆとり教育の意義を語るわけです。
彼によると「出来ぬ者は出来ぬままで結構。限りなく出来ない非才、愚才は勉強などしないで、ただ実直な精神だけを養っておいて貰いたい」と言いました。
 つまりゆとり教育というのは、目的ではなくて手段なんだということです。「あまり勉強が得意でない子の教育機会を奪って、その子たちにかけていた手間ひま、金をもうかけないで、それによって浮かした手間ひま、金をエリートに振り向ける。つまりエリート教育が目的であって、ゆとり教育はその手段なんだよ」というわけですね。
 私は、「先生それはちょっと変じゃないか。良い悪いは別にしてもしもそのような考え方であれば、エリート教育を前面に出すべきで、ゆとり教育というのはただの手間ひまを浮かすための方法じゃないですか」と言いましたら三浦さんはこう答えました。
「そんなことを本当に言ったら国民は怒るだろう。だからわざと回りくどく言ってやったんだ」と、何と率直というか、分析の余地もないことなのですが、私は何も三浦さんが言ったということだけをここで言っているわけではないのです。
 私は教育改革に関係した数十人に取材し、ここまでの言い方をしないだけでほとんど全員が同じ発想なのを承知の上で今話しているのです。文部省の建前はまるでウソ。教育機会の平等を奪って、それをエリート教育に振り向けるのが目的だということです。
 その後、中央教育審議会がこのように言ったことがあります。
「ゆとり教育で全体のハードルを下げたかもしれないが、このハードルに物足りない生徒がいたら、それ以上のより発展した学習をさせてもいいですよ」と。後である新聞は「ゆとり教育早くも敗北」と書きましたが、そうではなく、元々そうなのです。ゆとり教育は普通の子にはゆとり教育を、そうではない子には金によって別の教育をして、元々ある格差を広げましょうということに他ならないのです。これによって考えられることはまず、私立と公立の格差が広がります。
 ある私立校は当時こんなコマーシャルをやりました。「わが校はゆとり教育をやりません。従来どおり100%もしくはそれ以上教えます」と。私立が100%のレベルで教育し、それに対して公立が70パーセント程度ですから、小中あわせて100:70という関係が9年間続きますからとんでもない格差が拡がることになります。その先の高校受験や大学受験のレベルがゆとり教育のレベルに合わせてくれるなら、それはそれなりの筋ですが、そうはならない。高いレベルで実施される。結局、金のある子は私立にいき、そうでない人は公立にいく。そしてその先の学歴社会においてますますの格差がつくというようになって行くのです。
 これは相当単純化した構図でありまして、本当はもっともっと複雑です。
 公立のなかでも格差をつける。すなわち都市部ではエリート校とそうでない学校に分ける。一方、地方のあまり学校がないところでは一つの学校の中で能力別などクラス分けをおこなってできる子とそうでない子を勝手に格付けして区別する。まるでサラリーマンの人事考課のようなことが学校で本格的に始まるということです。
 その頃、日能研という中学受験の予備校から全国の親にこんなダイレクトメールが来たことがありました。「ゆとり教育では小学校の算数では円周率はおよそ3と教えます。以前のように3.14とは教えてくれなくなります。台形の面積の求め方も教えません。中学に行くと必修英単語は500語から100語に激減します。ですからゆとり教育の公立中学に行かせていてはお宅のお子さんの将来は真っ暗です。ゆとり教育をしないわが予備校に入れて勉強をして私立中学に進み、輝かしい将来を与えてあげてください」。
 非常にあざとい内容ですが、一面の真実を突いた結果、建前の部分は一切なくなります。つまり、一部には「詰め込み教育だからゆとりを」という一分の期待もなくはなかったのですが、実際には受験競争が以前よりよりひどくなるだけ、というとても愚かしい結果だけを招いています。

中高一貫教育、ついで小中一貫教育も
 さらに、公立校に格差をつけるという流れも強まっています。つまり公立の中高一貫教育というのができてきています。大阪もそうでしょうが、全国どこでもこの中高一貫校は進学校をめざしています。では、この中高一貫校をめざす子はどうするか。小学生の時から私立をめざすわけでもないのに受験勉強をしなければならない。しかし中高一貫校といえども義務教育ですから本格的な入学試験はできない。ではどうするかというと、小学校からの内申点で判断することになる。小学生のときから「ライバルは敵だ」という考えを持たざるをえない状況に追い込んでいく。先日の佐世保の事件の背景にもこんなことがあったやに聞いています。
 東京の品川ではさらに先取りした形で小中一貫校を2006年に開校するといわれています。その学校は超進学校にするというカリキュラムが組まれています。ではこの学校にどうして入るか。やはり小学校の入学試験はできませんから今度は幼稚園や保育園の内申点がものをいうようになって行く。(笑い)
 みなさん、笑っていますが本当にこんなすざましいことになっていくのです。
つまり、これは勝ち組と負け組みの論理が幼稚園まで降りてきたということです。このようなことを「競争原理」や「自己責任」という言葉で使われているわけです。
 いま進められている構造改革では「自己責任」原則が強調され、自由競争の社会をつくっていくとされています。そして競争なのだから「勝ち組」は小さいときから努力して結果を出したものであり、「負け組」は努力が足りなかったという論理です。
 しかし本当に「競争原理」と言うのならスタートラインが同じでなければなりません。スタートラインがずれていたら、競争ではなくイカサマレースになってしまいます。
 例えば、親の死亡や親の生活苦のために、施設に預けられて育つ子もいます。高校に入りたいけれども親がリストラにあい、家庭の経済不安のため中退せざるを得ない子もいます。一方、親のコネで私立の有名校に入り、親のコネで一流の製鋼会社に入り、親や祖父のコネで政治家になり、若くして自民党の幹事長になり、将来の首相といわれている人がいます。生活環境によってこれほどの差をつけられながら自由競争のうえで「勝った」とか「負けた」といえるでしょうか。別の例えで言うなら、一方では100メートル後ろからスタートし、もう一方はゴール一歩手前からスタートする。それでヨーイドン。そしてハイ、勝ち組、負け組みとなってしまう。もう一度言いますが、これがいま日本で進められている「構造改革・自己責任」路線です。私は何もいい大学へ行って、いい大会社に入るとか、いい先生になることがいいとは思っていません。こんなことを思っているなら、フリーライターなどバカバカしくてやっておれません。(笑い)
 大切なことは誰がいつ決めるのかということです。「勉強が好きでない子やできない子はスポーツとか音楽をやればいいじゃないか」という声もありますが、勉強ができなければ必ずスポーツや音楽がよくできるか、そんなことはまったくありません。松井やイチローの例が出されることがありますが、世界で1人や2人しかいない人の例を挙げて、「勉強できない子は別の道を進みなさい」という馬鹿げた理屈はありません。
大抵はある程度勉強しなければ就職できませんから誰でもある程度は勉強するものです。でも普通程度に頑張るか、頑張らないかは本人の自由です。頑張って、頑張りぬいてエリートをめざす、そうではなく普通に勉強してエリートではない道を進むのもよし、「勉強は向いていないからとか、好きでないから」と自ら合う道に進むのもよし。要は本人が決めるのがベストです。

「できる子かできない子か、遺伝子で調べる」
 大人たちが考えなければならないのは、こどもたちがその自由を謳歌できるか、そのために社会があるといってもいいと思いますが、どうも為政者の考えは違うようです。一方では「オマエは将来のリーダーだ」と言い、他方には「オマエは無理だし、無駄だからやめておけ」というようなことを小学校から決めていこうというのが現在の教育改革です。
 極めつけの例を話ししましょう。私は教育改革国民会議の座長をされている江崎玲於奈氏を取材したのですが、能力別教育についての話のなかで氏はこのように答えました。ノーベル物理学賞を取ったあの江崎さんの言葉です。
「近い将来、就学時検診の際に血液を採りたい。血を採って遺伝子を調べればその子のヒトゲノムの解読によってその子が将来どれくらい伸びるか分かるので、伸びる子にはちゃんと教える、そうでない子にはそれなりに教える。教育には遺伝と環境の二つの要素があることは知っているが、環境を重視する者は共産党である。遺伝を重視する者は優生学的思想だ。私はこちらだ」と言ったのです。分析の余地はまったくありません。この話を聞いて「スクープだな」と思いました。本に書くまで黙っておれなくなって、あちこちの友人に「江崎氏はこんなことを言っているよ」と言いふらしたのです。あの人に話したらネタを取られるかなと思うような連中にまでにも話したのですが、驚いたことにそれが大変な発言だと気づいてくれた記者は一人もいませんでした。全員が「その発言って、ヘンなの?」と言うのです。教育改革の関係者も全員同じような受け止め方なのです。
 もう一つの例ですが、今年6月に愛媛県松山市で開催されたタウンミーティングでは元宇宙飛行士の毛利衛氏も江崎氏と同じようなことを言っているのです。毛利氏は教育改革の中でスーパーサイエンススクールを作っている人です。江崎氏は私の取材のなかで話されたのですが、毛利氏は不特定多数の国民・市民の前ではっきりと言い出したのです。これを取り上げて書いたのは地元の愛媛新聞だけです。この発言内容はローカルニュースで扱う程度のものではなく、全国ニュースものです。地元の全国紙の愛媛支局の記者もこの会議に出席していたのですが、誰も書かなかった。こういうマスコミの現実もあるのです。
 
 そもそも教育とは本人のどうすることもできない家庭環境次第に左右されることが多い。そして本人の努力などが積み重なって、その子がどうなっていくかが決まっていくというものです。遺伝子的要素はこの子がどういう病気になりやすいかという傾向は分かるかもしれませんが、この子は勉強ができる、この子はできないという話ではありません。こんなことをノーベル賞や宇宙を飛行した人が平気で、国の教育政策の全体像を作る過程で話しているのです。「私はいままで一万人を超える人を取材してきたが、あなたが一番の大馬鹿野郎だ」と言ってやりたい気持ちでいっぱいでした。大馬鹿野郎という表現はさておき、現実にこういう人に教育改革が委ねられているということなのです。
 いま、教育は家庭環境次第に左右されることが多いといいましたが、家庭環境の大きなファクターは経済力です。ズバリ言いますと、金があれば教育してもらえる、ないヤツは後で気がついたときはもう遅い。恵まれた層には非常に有利、そうでない層には一方的に不利ということです。構造改革路線のもとで教育改革はこういう方向を意識してめざしているわけです。

相性がいい差別と戦争
 飛躍するようですが、いま話してきた教育格差や学歴差別は戦争と親和性があります。私は差別と戦争は相性がいいと思っています。
 ベトナム戦争のとき、アメリカの兵士のうち黒人系兵士は26パーセントを占めていました。アメリカの人口に対しては黒人系は12パーセントですから、黒人兵士のウエイトが大変高い。要は黒人系から兵士を派遣している、したがって戦死・怪我は黒人系が圧倒的に多いと指摘されました。今回のイラク戦争でも同様の傾向があります。移民とかで市民権を取りたい人がイラクで戦わされているとも言われています。イラク兵捕虜への虐待が問題になりましたが、虐待したアメリカの女性兵士は白人ですが、プアホワイトで大学に行く奨学金を得るために兵士となって参加していることが後でわかりました。あの国では貧しい人は教育を受けられないので、受けたいと思えば戦争に行き、たくさん人を殺し、手柄を立てれば奨学金が得られるということです。
 今はありませんが、ベトナム戦争のときは徴兵制がありました。どちらにせよ貧しい人たちにしわ寄せさせられているということには変わりありません。日本の周辺国、すなわち韓国・北朝鮮・台湾・中国は徴兵制を取っています。日本の為政者も徴兵制をやりたくない筈はない。自民党の憲法改正の論点整理には国防の義務ということがしっかり書かれています。いま言ってきたように日本において教育の格差がドンドン拡大していくと、子どもがどこかで頑張り直そうと思っても戦争に参加するしかないということになりかねない。私が差別と戦争は相性がいいと思う理由はここにあるのです。いま、われわれはこのような状況の手前にいるといえるでしょう。
 一握りの勝ち組といわれる人以外の圧倒的な国民が理不尽・不公平・不平等な扱いを受けるような社会、人間の尊厳がまったくかえりみられない社会では当然さまざまな不満や憤懣が生じます。この不満や憤懣がこのような社会を作り出した連中にぶつけられるのであれば、それはそれなりに健全と言えます。革命にならなくとも選挙で自らの意思を投ずることができます。だが、実際には先ほどのセクハラされた女性たちのようにそんなことは怖くてできない。したがって、これらの憤懣は自分より弱い立場の人々にモロにぶつけられる。それがいまの時代の特徴の一つではないでしょうか。在日・部落差別の背景であり、最近のイラクでの人質たちに対するバッシングの態度ではないかと思います。
 私は浅ましい社会になってきている。社会秩序が崩壊しつつあると言えるのではないかと思っています。

「いい立場にあるものが、他人さまを見下してはいけませんよ」
 さらにいま国はさまざまな名目で国民の監視体制を強めています。国民背番号制・住民基本台帳ネツトワーク・監視カメラ法に続いて、自警団があちこちで生まれてきていますし、生活安全条例という名の下に隣組化や自治体・警察・国民の一体化ということが次々と拡がっています。
 私が批判的にものを言うと、「斎藤さんは何か後ろめたいことがあるのではないか」とよく言われるのですが(笑い)、このような質問が出るように多くの国民は安全や安心のためなら多少の監視はやむを得ないと考えているようです。しかし、よく考えてみるといくら監視体制を強めてもテロにしても犯罪にしても絶対になくなりません。なぜなら、それらには原因があるからです。圧倒的な犯罪は貧困や差別にその原因があることは明らかです。
さきほどからお話しているように構造改革によって貧困や差別はいっそう拡大します。
国際的な流れで見れば、アメリカや日本は世界の弱い国をいたぶっているわけですが、かえってそれはテロの温床をはびこらせらせることになります。テロや犯罪の恐れが激しくなるからという理由から防犯カメラや監視体制を強めるということは本末転倒です。
貧困や差別がある限り、テロや犯罪は減らず、普通の市民・国民が見張られるだけということになる。ここでも見張る側と見張られる側に分けられます。先ほど来の階層間格差とリンクしているわけです。
 どうもいま話してきたことは絶望的な状況と言えますね。私はみなさんを絶望させるために来たのではありません。(笑い) あちこちで話をしていると「斎藤さん、あなたは政府の回し者ではないか、私たちを絶望におとしいれ、立ち上がる気力をなくさせようとしているのか」といわれることがありますし、(笑い) 自ら「なるほどそうかも知れない」と思うこともあります。(笑い) 私がみなさんに一番訴えたいことは新聞があまり本当のことを書かないので、私が代わっていろいろ書いたり、しゃべったりする。新聞が書かないことを私が書いてそれを知ってもらうというニッチ産業が商売として成立するという変なことになっているわけです。(笑い) しかし、みなさんが知らなかったことを知ったり、事柄の本質を知ったりされると、それらに対する対抗・対応の仕方とかいいアイデイアも生まれてくるはずです。そんなことをお手伝いしたい気持ちを含めてお話してきました。
 私は今まで多くの人を取材してきましたが、最近は一つの傾向を痛感しています。それはいまの為政者や財界人の、それ以外の人々を見下す視線が変わってきたということです。先ほどの香田さんの例のように自分たちに関係のない事柄にはどうでもいいじゃないかという視線をあちこちに取材に行ってモロに見せ付けられることが何度もありました。私が20数年前、記者生活を始めた頃には感じることがなかった視線です。その頃でも彼らが本当の心に何を感じていたかはわかりませんが、「いい立場にあるものが、他人さまを見下してはいけませんよ」という程度の常識は、まだしもその頃にはありました。しかしいまはそれらがなくなってきていることに決定的な違いを感じています。それが今日の問題の根底になってきていると思っています。

保険会社に思うこと
 最後に保険業界のことに少し触れたいと思います。保険業界に対してもいま触れたこととよく似たことを感じています。大学を出て新聞記者や週刊誌記者をやりました。三浦和義事件の取材などで生命保険文化センターや損保協会によく行き、保険について勉強させてもらいました。その当時はバブルの少し前の時代でしたが、保険業界の人たちは保険産業を一流の金融機関にしたいというフレッシュな理想に燃えているような目をしておられた記憶があります。私のような週刊誌記者など世の中をひがみ目で見ているものにとっては「ビジネンマンにはチャンとした人もいるのだな」と思わせてくれました。しかしその後、バブル以降は変わってしまったのではないでしょうか。
 数年前、私は追突されて車を壊されてしまいました。相手運転手は泥酔状態で、当方には一分の非もなかったのです。そこで損害保険会社に請求しましたところ、対人と車両の担当者2人いることが分かりました。対人の担当者が家にやってきました。同乗していた小学校一年の子どもが「こわかった。死ぬかと思った」と言ったので、「こんな記憶がいつまでも残ったら困る」と伝えたところ、「子どもなんてすぐ忘れますよ」と返答したのです。
今度は車についてサービスセンターの社員から電話がかかってきて、「このたびはお気の毒でした。しかし、会社としては保険金を支払えませんので、裁判でも何でも起こしてください」と、こちらが何も言わない前にこうなのです。最後は裁判に訴え、全額いただきましたが、それ以前の保険業界の人達に対する印象がよかっただけに大変つらい思いがしました。やはり保険会社も変わっていているのだなと思いました。
 世の中いろいろ荒れてきています。このことを私たちが自覚し、それではいけない、何とかしようと思うところから始めなければなりません。そして「ブッシュも小泉も戦争をしたくてしようがないのだよ」ということをあからさまにしているわけですから、みんなでできることを何からでも始めたいと思うのです。
 長くなりましたが、これで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。(長い大きな拍手)