2000年10月13日

 大阪損保革新懇第三回総会記念講演録   於本町 大阪府商工会館

講演 『21世紀、人間らしくどう生きる』

講師 宗藤法律事務所代表・弁護士 宗藤泰而氏


講演目次

 はじめに

 「日本の経営者は尊敬することはできない」 

 労働組合は組合員の利益を守っているか

マイクの声が私の人生を変えた
日本とドイツ憲法の理念の違い

 20世紀はどういう時代だったのか

 「個人の団結権」を見直そう
 21世紀、人間尊厳の時代をともに生きよう



はじめに

 ただ今、ご紹介いただきました宗藤でございます。大阪損保革新懇第三回総会でお話できることを大変光栄に思います。実は、私は昨年4月、全損保本部主催幹部学校に招かれ、お話をさせていただきました。この時、これが全損保組合員の前でお話しする最後の機会にしようと思い、上京したのです。

 その講演録が『全損保調査時報』に掲載されていますが、昭和41年・1966年、今から34年前です。当時の全損保東海支部は全損保脱退を決議しました。私たちは全損保に踏み止どまる選択をしたのです。全損保幹部学校ではその経験をお話ししました。

 この中では「これは34年前のことです。今みなさんのところでこういう事態が発生したら皆さんはどういう選択をされるでしょうか。ただ幸いにして今後そのような分裂・脱退という事態は起きないだろうと思います」と申し上げました。

 そう申し上げたのには、それなりの理由があったのですが、残念ながら私のこの予想はくつがえりました。今、全国の日本火災の職場で組合員は重大な選択を迫られています。20世紀最後の年というのに何故34年前のような分裂・脱退が再び起こるのか、それを考えると暗澹たる思いがいたしますが、少し背景・情勢を考えながら、最後に頂戴した演題の『21世紀、人間らしくどう生きる』についての私なりの結論、すなわち個人の団結権=人間の尊厳の問題でしめくくれるように話を進めていきたいと思います。



「日本の経営者は尊敬することはできない


 今日私がお話ししたい第一は、「日本の経営者は尊敬することはできない」ということであります。実は今日ここに持ってきましたが、元神戸新聞社記者で経済評論家の内橋克人氏の『尊敬あたわざる企業』という本があります。私はこの題名が好きなのですが、内容がもっといい。

 この中にIBM、IBMは世界の超巨大多国籍企業であるにもかかわらず、世界各地のただの一か所もカンパニータウン、すなわち企業城下町をつくらなかったことが書かれています。創始者ワトソンは「特定の企業の盛衰で町の人の運命を左右されてはいけない。だから企業城下町を形成するような立地の仕方はさけるべきだ」という信念にもとづいて企業城下町をつくらなかったばかりか、「取引先が過度にIBMに依存する体制をとることもさけるべきだ」という信念を貫きました。日本のように特定大企業に従属する下請け企業のような存在をつくらなかったのです。

 日本ではどうでしょうか。ルノーの軍門に下った日産自動車は大リストラの中で主力工場の一つである村山工場の閉鎖を決定しました。村山工場を閉鎖すれば、従業員が深刻な打撃を受けるだけではなく、地域の経済も壊滅的な打撃を受ける。武蔵村山市もまた壊滅的な影響をうけることは間違いありません。

 今日本国中、トヨタ自動車の豊田市をはじめとしてあらゆるところにカンパニータウン・企業城下町があります。日本の経営者はそのようなことを避けることは全く考えていない。この本は、「特定地域に親企業が君臨し、膨大な数の系列下請け企業網を配下に治め、地域の政治・経済・行政にまで過度に発言していく。このようなカンパニータウンのあり方は欧米諸国、欧米資本主義国にとってはまことに奇異なものに映っている。それは資本主義のルールではない」と指摘しているのです。

 私は神戸製鋼所の株主代表訴訟の弁護士団の一人です。
 神戸製鋼所の経営者は1990年から1997年まで判明している限り、少なくても2億円の会社の金を総会屋に渡していた。私は証拠とするため東京出張のついでに国会図書館に行き、写真週刊誌『フライデ−』のコピーをとってきました。この『フライデ−』には10年前の1990年、当時の大物総会屋の息子の結婚式に日本を代表するトップ経営者120人が集まったことを示しています。なかでも突出していたのは第一勧銀・神戸製鋼所・野村證券・三菱地所を中心とする三菱グループの企業経営者です。この書証はこの裁判で甲第一号証になりました。

 実は、神戸製鋼所には私の次男が勤務しております。10年間、豊橋でロボット開発に従事してきましたが、神戸製鋼所の大リストラによりロボット部門を川崎重工に譲渡してしまいました。次男は本年4月、ロボットにくっついて川崎重工に転籍しました。

 神戸製鋼所の経営者が総会屋に金を渡したのは決して会社の利益を思ったからではありません。役員人事は総会屋が左右するほどの力を持っていたといいます。彼らは自分の保身のために、自分の利益のために会社の金を渡していたのです。

こういう日本の経営者の無責任さ、無節操ぶり、破廉恥さと言ってもいいと思いますが、このような例は最近でも枚挙にいとまがありません。

2兆6千億の負債を抱えて大リストラを展開しているダイエ−。社長・副社長がインサイダ−取引まがいの株取引をして、従業員にはリストラ。本当に破廉恥極まりないと言わざるをえません。

数日前に破綻が明らかになった千代田生命。新聞報道によると1996年5月、東京・向島の高級料亭で接待した中尾建設大臣就任祝いには故竹下元首相、建設省幹部同じく大手建設会社関係者にまじって千代田生命から元会長・社長などが顔を揃えていたのです。

平成3年・1991年9月、経団連は『企業行動憲章』なるものを発表しました。憲章です。マグナカルタです。彼らはこういいました。「今日の企業は公正な競争をつうじて適正な利益を追及するという経済的存在である。と同時に人間が豊かに生活していくために奉仕し、広く社会全体にとって有用な存在であることが求められる。そのために企業は単に法を遵守するにとどまらず社会的常識を持って行動しなければならない」。歯の浮く様な言葉であります。

そして企業行動の7原則と称し、第一に「社会的に有用な優れたサービスを提供に務める」といっています。つぎに、皆さんびっくりされるでしょうが、「社員のゆとりと豊かさの実現に勤め、社員の人間性を尊重する」とあります。第六には「社会の秩序や安全に悪い影響を与える団体の活動にかかわるな。社会的常識に反する行為は断固として行なうな」と。これが経団連の10年前のマグナカルタです。

彼らはこの約束を守ったでしょうかか。みなさん、ご存じの通りです。ですから、私は「日本の経営者は尊敬することはできない。無責任で、無節操で、破廉恥である」と言わなければならないのです。


労働組合は組合員の利益を守っているか


 それでは、次に日本の大企業の労働組合と幹部は尊敬できるのかという問題です。

 ごく最近、「そごう」水島会長が解任されましたが、組合の機関紙に「中興の祖である水島会長に感謝しよう」とあったそうです。まるで社内報ではありませんか。15年間君臨した委員長の給与は役員を除き最高水準にあったという。さすがに後任の和田社長は「そごうの破綻には労組も責任の一端を担うべき、許しがたい」と発言しています。

 皆さんもお聞きになったかもしれませんが、私も小説『沈まぬ太陽』のモデルである小倉寛太郎さんの話を聞く機会がありました。小倉さんはこう言いました。「組合幹部が社長の人事まで左右すると豪語して労使一体となって生産性向上に協力した某自動車メーカーが外国資本の軍門に下りました」と。日産自動車であることは間違いありません。

 『沈まぬ太陽』には何よりも日本航空労組の労使協調幹部の堕落ぶりが描かれています。 日本の一部の大企業の労働組合と幹部は尊敬できるかを考えてみたいと思います。

 つい先頃、自民党は労基法を改正して、組合費のチェックオフを禁止するという法律を出すということを決めました。これは民主党を支持する連合幹部に対して、「みなさんチェックオフを廃止したら首が危ないですよ」といって脅かしたのです。自民党の意図はともかく、私も所属している日本労働弁護団はこの自民党の提案について、「チェックオフを禁止することは労働者の団結権を侵害する」という見解を発表しました。

 私も日本労働弁護団に所属していますが、しかし私は俄かにこの見解に賛成することはできません。なぜなら、私は日本の大企業の職場の労働者は「尊敬することができない経営者」と「尊敬することができない組合幹部」の二つに支配されていると考えるからです。

 私はその支配の基礎・基盤をなしているものがユニオンショップ制度と組合費のチェックオフだと考えています。したがって、私はこの点について私ばかりだけでなく、どなたかもっと権威のある方からこのチェックオフ禁止について意見を発表してもらえないだろうかと思っていました。つい先頃、私が尊敬する労働法学者である大阪市立大学西谷教授が見解を発表されました。それを引用してみましょう。

 「現代の大企業の労働組合はとにかくリストラを推し進めるために闘っていない。活動していない。労働組合が組合員の徹底した討論を背景に経営者側とぎりぎりの交渉を行なって、労働者の利益を擁護するために最大限の努力をした、というのであれば、労働組合に対する労働者の恨みはここまで深刻にはならなかった」と書いてあります。労働組合に対する恨みですよ。そしてさらにこう言っています。

「ユニオンショップによって従業員に加入を強制し、チェックオフによって組合費を強制的に取り立てておいて、組合員の利益になることを何もしないのであれば、極論すれば労働組合という存在そのものが有害ということになりかねない」と。

労働組合が組合員の助けにならない、利益を守らないというのではなくて、有害、害を及ぼしかねないとまで西谷教授は言っています。私はこの見解に本当に胸のすく思いがしました。そして西谷教授は最後はこう結んでいます。

「企業別労働組合は自らユニオンショップ制度をやめ自由加盟制にするか、早急に労働組合の機能を高めることに成功しない限り、労働組合は有害無益の烙印を押され衰退の一途をたどるのではないかという危機感を払拭できない」。

このことはかつての労働組合は果たしてそうであったかという問題と関係があります。


マイクの声が私の人生を変えた


さきほど引用した小説『沈まぬ太陽』の中に団交の模様を書いたところがあります。 団交のテーブルにマイクが据え付けられています。そのマイクの前で組合委員長に就任した主人公の恩地が経営者を前にして切々と労働条件の改善を訴えるという場面があります。 私はこの部分を読んでハッと思いました。私自身を振り返ってみますと1955年・昭和30年、大学を卒業して労働組合の存在すら知らなくて東京海上に入社しました。そして人並みには出世したいと思っていた青年をマイクの声が変えてしまったのです。生き方を変えてしまったのです。

当時、全損保東京海上支部では会社との団交は待機する組合員にマイクで中継をされました。私が新入社員の頃、そのマイクから鈴木俊治委員長が切々とかつ説得力をもって組合員の労働条件改善を訴える声が聞こえました。私が思ったのはあのような人間に、あのような人になりたい。マイクで聞く限り、東京海上支部鈴木委員長は経営者とは段違いの能力で、段違いの人柄でありました。

私は経営者はあまり尊敬することができないなと思いました。私はその後、東海支部執行委員になりましたが、鈴木委員長から「君はまだ若い。しかし君は組合の代表だ。これから会社と交渉する時、決して相手を役職の名前で読んではならない」と言われました。以来、私は会社と交渉する場合、菊地社長、山本社長とは呼ばないで、菊地さん、山本さんと呼びました。今考えてみますと、20歳代の若造が東京海上の社長をさん付けで呼んだのですから嫌われたのも当然かもしれないという気がします。私自身が初めて東京分会全組合員の聞いているマイクを前にして団体交渉で発言することは本当に胸が張り裂けるほどの緊張と興奮を覚えました。もちろん、その後会社は組合破壊のための方策の一環として団交のマイク中継は実力で中止しました。

私が申し上げたいのは私たちが若い頃、労働組合はそのような一人の青年の生き方を変えてしまうような鮮烈な印象を与えた存在だったということなのです。

それでは、何故このように変わってしまったのか。


日本とドイツの憲法の理念の違い


次に、日本とドイツの憲法を念頭に置いて違いを考えてみたいと思います。

先頃、神戸大学は元ドイツ大統領ワイゼッカ−氏に名誉教授の称号を授与し、そのワイゼッカ−氏が来日、神戸大学で記念講演をしたと新聞記事にありました。ワイゼッカ−元大統領は大統領在任時代に率直に過去にナチスの犯した犯罪について反省の言葉を述べ、そして二度とドイツはこのような行為を繰り返さないという決意を述べた大統領として知られています。それに比べて日本の総理大臣は「神の国」とおっしゃっている。

ドイツ基本法第一条は「人間の尊厳は不可侵である」。すなわち人間の尊厳は犯すことはできない。それを尊重し、保護するのはあらゆる国家権力の義務であると述べているのです。第一章「天皇」から始まる日本国憲法となんという違いでしょう。

 ドイツ憲法第一条にこのような規定がおかれた意味は、国家は人間のために存在するのであって、人間が国家のために存在するのではない。価値は個人の価値が優先・優位する。そして、その個人の優位は対国家との関係ばかりではなく、あらゆる社会の存在、あらゆる社会集団との関係においても個人が優位するということです。私なりに比喩的に言えば、企業は人間のために存在するのであって、人間が企業のために存在するのではないということなのです。

なぜ、ドイツ基本法第一条に「人間の尊厳」がおかれているのか。それは何よりも過去における人間の侮辱への反省として、つまりナチスのした行為の反省に基づいて憲法の理念に取り入れられたということなのです。

 今日は詳しくお話しする時間はありませんが、私が現在所属している司法の分野でも最近「司法改革」ということが盛んに強調されています。その際、ドイツの司法との対比がよく出されます。ある本によれば、「今日のドイツの訴訟における人間尊厳確保の努力は究極的には全てナチスのもたらした悲劇に由来する意識と結び付いている。だからこそドイツの司法では人間の尊厳と言う言葉があふれている」とあります。それに比べて日本はどうでしょうか。

 実はこの夏、NHK出版の『黙殺』という本を読みました。黙殺という意味は1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。その20日ぐらい前の7月30日、当時の鈴木貫太郎総理大臣は記者団に「ポツダム宣言を黙殺する」と語った。トルーマン大統領は「日本支配層はポツダム宣言を黙殺する以上、戦争を早期に終結させるためには原爆投下しかない」と考えて大統領は日本に原爆投下を命じた。つまり鈴木貫菅太郎総理の黙殺と言う言葉が原爆投下を招いた。私が学生時代に教わった岡東大教授も「鈴木首相がこのポツダム宣言を黙殺したことが米英側を刺激し、8月6日に広島、同9日に長崎への原爆投下を招いた」と言いました。

 しかし、この黙殺という言葉はアメリカに残された公文書によっても事実に反しています。アメリカは最初から日本に原爆を投下するつもりだった。日本政府がどのような態度を取ろうが関わりはなかった。考えてみると、日本がポツダム宣言を受諾した約1か月前に初めてアメリカは原爆実験に成功しました。それからアメリカは原子爆弾を投下すると155度旋回してB25を回避しなければ、自らが原子爆弾の強烈な爆風で吹き飛ばされる。そのために投下実験を繰り返したのです。

この公文書によると、「7月20日から8月14日のポツダム宣言受諾までに第509混成軍団(B29)が日本に投下したのは2発の原爆と49発のパンプキン爆弾だった。パンプキン爆弾というのは投下練習するための丸いずんぐりしたダイダイ色に塗られ、カボチャに似ているからパンプキン、それを原爆の投下の実験のために49発日本に落とした模擬爆弾です。投下の第一目標はほとんど直前まで京都でした。

しかしさすがにアメリカの支配層の中にも京都に原爆を投下した場合、アメリカがヒトラーと同じレベルの野蛮人にみなされるということで京都が長崎に差し替えられました。8月6日攻撃目標は広島第一、第二小倉、第三長崎。広島の天候が悪ければ第二目標の小倉に落とす筈だった。8月6日広島、8月9日長崎に原爆を落とし、アメリカにはもう保有している原爆はなかった。すなわち2発とも日本に落としてしまった」こう書いてあります。

私がここで強調したいのは、当時の日本政府の態度はどうだったかということです。 

 それは国民の利益を考えるのではなく、「国体の保持」全てそのことに尽きる。したがって、8月15日のポツダム宣言受諾も天皇制の存続に執着したのです。そしてアメリカの戦後支配の中でこの天皇制は存続させられました。

 日本とドイツの憲法の理念の差はここにあることは明瞭です。


20世紀はどういう時代だったのか


 いま、20世紀最後の年を迎え、20世紀とはどういう時代だったのかという総括がいろいろな分野でされていると思います。私なりに定義すれば、今述べたように「20世紀の前半はナチス・ドイツによって、日本の天皇制によって、そして社会主義の名の下でのスターリンの暴虐によって、人間の尊厳が侵害されてきた、人間が侮辱された世紀だった。しかし20世紀の後半は人間の尊厳の回復の動きが始まった時代」ということになるでしょう。しかし、日本はその流れの中で何をしているのでしょうか。

 私は広島県の出身ですが、ご承知のように昨年、広島世羅高校の校長が卒業式に「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱しなさいという教育委員会の指導に悩んで自殺するという事件が起きました。毎日新聞によると、「国旗国歌法」が制定された後の今年の広島世羅高校卒業式では国歌斉唱の号令がかかると卒業生201人を含む生徒570人のほとんどが着席、教職員も約50人のうち約10人が着席、しかし写真説明によれば「参加した父母はほとんど起立した。おそらく生徒は「君が代」は天皇の治世が永遠に続くことを祈念する歌である、そのような歌を斉唱するわけにはいかないということで抗議の意思を表明したのではないか」とあります。

私はこの記事を読んだ時、日本の子供たちも捨てたもんじゃないと思いました。しかし大人たちはどうなのでしょうか。まず父兄は全員起立した、そして教職員の50人のうち生徒と同じように着席して抗議の意思を表明をしたのは10人にすぎない。その40人の教師たちは子供たちにどのように映ったか。初めに紹介したこの本の表題を借りていれば『尊敬あたわざる教師』じゃないでしょうか。

そのような教師に、現在の教育基本法の前文「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希球する人間の育成を期する」とその教育基本法に基づいた教員を期待できるのでしょうか。 人間の尊厳を否定するような、つまり「君が代」を国歌と制定することはそのこと自体が個人の内心の自由の侵害です。それに抗議をしないで、個人の尊厳を講義できるのかということになります。




「個人の団結権」を見直そう


 最後のお話に移りたいと思います。それでは私たちはどうすればいいのでしょうか。 

 当面している日本火災の組合員の皆さんの立場に自分の身をおいて考えてみたいと思います。先程紹介した経営者のもとで破綻した千代田生命。今年の9月3日付の朝日新聞ですが、「広島市で千代田生命の課長を務める金子隆さんは今年生保労連から脱退した。金子さんはこれまで組合にはほとんど関心をもたずにサラリーマン人生を送ってきたが、それでも入社後27年間組合費を払い続けてきたのは給料から天引きされていたからだけではない、首にされそうな時守ってくれるだろうそんあわい期待もあった。

千代田生命が内勤社員の早期退職制度を打ち出した時、金子さんも退職者リストに名前が入っていた。金子さんは会社がこうなったのはバブル時の経営判断が原因じゃないか、その経営者が社員の首を切って経営を立て直すとはなんだ。できるわけがない。初めて怒って東京本社にある労組の中央執行部に2度3度電話をかけ、800人の早期退職を何故労組は了承したのか、せめて会社と条件闘争してほしい。しかし具体的な回答はない。最後の期待も裏切られた。彼はユニオンショップの千代田生命労組を脱退して、銀産労、銀行産業労組に個人加盟に加盟した。そして会社と団体交渉したところ懲戒解雇処分などに該当するような事情がなければ定年まで働くことを保障するとの回答を得た。組合を変わらなければ雇用を守れなかった」というのが朝日新聞の記事です。

これは大きな意味を持つ出来事だったと思います。新聞は金子さんの脱退、脱退と書いていますが、本当は脱退ではなかったのではないか、彼は団結権を行使したのではないか、というのがこれからの私の話です。現在、クーデターにも等しい日火支部の全損保脱退の動きに対して、自然発生的にといっていいのでしょうか、各分会で抗議の声が上がっています。福岡分会、岡山分会などでは支部の脱退提案に保留という態度を決めたということを聞いています。今職場の人たちはクーデターを起こした組合幹部達がつくろうとしている労働組合はさきほどの西谷教授の言葉を借りて言うならば、「有害無益の烙印を押された組合をつくろうとしている」ということを職場の人はもうすでに肌で感じているということでしょう。

 日本では団結権というのはこれまで労働組合という団体の権利として考えられてきました。多くの労働法学者はそのようにとらえてきました。労働組合が「善なる存在」ならそれで良いのかもしれませんが、先程のように「有害無益な存在」に化してしまった今日、団体の権利というのは考えられますか。西谷教授は団結権をまず個人の権利としてとらえ、「ドイツでは個人の権利はすべての団体に優位する」とされています。

したがって、団結権も団体権も個人の権利としてとらえるべきであると主張されています。そして西谷教授は「従属的立場に置かれた労働者が自己の労働条件決定や経済的地位の向上に実質的に関与するために保障された権利」として団結権をとらえるべきである。その意味では西谷教授は「団結権は憲法25条の生存権よりも憲法13条に基礎を置く人格的自立権、あるいは自己決定権のほうに密接な関係を持つ」と主張されています。

憲法13条というのは「すべて国民は個人として尊重される」という規定であります。 実は、私も分裂後の東海支部神戸分会で自分達の手で組合機関紙を作った時、こんなことを書き付けたことを覚えています。「会社が貴ぶのに大事なのはその中にいる従業員個人だ。何故会社はそのような個人を大切にしないのか。憲法にも国民はすべて個人として尊重されると書いてあるではないか」というようなことを書きました。しかしその頃は、大した法律の勉強はしていませんでしたから、この西谷教授の様に「個人の団結権」のようにとらえていたわけではありません。ただ、現在の気持ち言うなら、私も日本国憲法の憲法13条はもっと高い位置付けにおかれてきたというような気がしてなりません。

その憲法13条の中には先程言いましたように自分にかかわることを自分自身で決定する「自己決定権」が含まれている。先程の千代田生命の金子さんのことをこのように考えたい。脱退ではなく団結権の行使であり、自己決定権を行使した結果である。その結果、彼の雇用が保証されたということです。

 現在、日火支部を全損保から引き裂こうとするクーデター派はそのお題目として「一つの労働組合」をつくると言っています。しかし皆さん考えてみてください。その「一つの労働組合」が西谷教授が烙印を押したような有害無益な存在であるなら、それは労働者にとってこれほどの悲劇はないというべきではありませんか。

 「一つの労働組合」なんていらない、二つあって当然だ。何故なら人間ですから、自分が団結を選択すれば一つの労働組合になるわけがないということです。

 私は冒頭、全損保幹部学校の話の中で、「再び皆さんが全損保脱退という提案に直面して選択を迫られる事態はこないでしょう」と申し上げましたが、それには理由がありました。それは経営者が職場に二つ労働組合が存在することの不利益さを十分に承知している。だから、彼らはユニオンショップとチェクオフ制度を最大限に利用して、「尊敬することのできない経営者」は「尊敬することのない労働組合の幹部」に力を入れ労働者を支配しようとする、つまり一つの労働組合は労働者支配にとってはまことに便利なのです。

私はその法的な基礎をなすのはユニオンショップ制度とチェックオフであると考えてきました。しかし日火支部クーデター派はどういうわけか、もちろん経営者の意向、尊敬することのできない日本火災、興亜火災経営者の意を受けていることは明瞭でありますが、どういう訳か職場の組合員に団結権の選択を迫るような事態をつくったのです。

 そうであれば、今私たちがしなければならないことは自ら憲法13条に団結権、自己決定権、自分の労働条件、自分の雇用を自分が守るという団結権を行使しなければならないということになるのではないでしょうか。

 ドイツ憲法ばかり引いているようですが、第一条に人間の尊厳は不可侵であると謳い、第二条には、「万人は他人の権利を侵害したり、憲法秩序に反することのない限り、自己の人格を自由に展開する権利を有する」とあります。日本の憲法13条もまたそのような意味を持つと考えるべきではないでしょうか。

 ドイツ基本法の第二条の意味は人間の人間たるゆえんは、自由にかつ自己意識を持って、自ら決定し、環境に働きかけることにある。そうであるならば、人間の尊厳を尊重するならば、自ら決定し、環境に自ら働きかけなくてはいけない。流されてはいけないのです。黙って国歌斉唱に加わってはいけない。自分は国歌斉唱に加わらないとという自己意思を持つということです。



21世紀、人間尊厳の時代をともに生きよう


 昨年の全損保幹部学校の席で日火支部の組合員の皆さんも何人か私の話を聞いてくださったと思いますが、いま私が日火支部組合員さんに願うのはどうかよく考えて自分で団結権を行使してほしい。決して一つの組合が全てではない。団結権を行使して自己決定権を行使してほしい。それが自分自身の人間の尊厳を守る道であるということです。

 さらに千代田生命の金子さんの経験が示すように、団結権を行使した者は必ず雇用は保証される。何故なら経営者はそのような団結権を行使した者に対してリストラなどによる退職勧告する勇気は持たないでしょう。これは20数年間、私の弁護士生活の経験からも断言できることです。私も神戸で大リストラと闘った川崎重工業の労働者、神戸製鋼所の労働者と一緒に闘いました。彼らは徹底的に差別されました。今なお賃金差別是正を求めて労働委員会で争っています。しかし彼らは出世はしないけど、絶対定年までは職場にいます。他の労働者、とりわけ会社側に一緒にくっついた労働者は定年まで雇用が保証されることはまずありません。だから、川重でも神戸製鋼でも現在規定の60歳定年を迎えている人は闘った労働者だけであります。その他の労働者は全て退職勧告によって定年前に会社を去っているという厳然たる事実があります。

 ですから、団結とは数ではない、数ではなくて人間の意思なのです。その団結権を行使した人間が数が集まったら大きな力を発揮するということです。

 若い方は若い方なりの21世紀、年を取った者は残された人生を、お互いに21世紀を迎え、自己決定権を行使して悔いのない人生を送っていきたいと思います。自分たちの仲間の人間の尊厳を、個人の尊厳を守るためにお互いに頑張っていきたいと思います。

 長時間、ご静聴ありがとうございました                (大拍手)